2016年3月15日火曜日

土井家の黒豆

編集者やライターといった仕事をしていると、担当した連載しだいで、その後関わる仕事が大きく変わることは結構ある。まったく興味のなかった分野でもその面白さに目覚めて、舵を切ることもあるだろうし、もともと興味のある分野ならばなおさら転機になりやすい。

今月売りの『dancyu』2016年4月号のレシピ特集「いいレシピってなんだ?」で、数年ぶりに土井善晴先生にお会いした。


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以前、テレビ朝日『おかずのクッキング』の番組本で、数年間、土井先生の対談連載の構成をしていたことがある。2007~2012年のことだ。ほぼすべての対談現場に立ち会い、全原稿に関わった。

対談のお相手は、すごい方々ばかりだった。斉須政雄さん(コート・ドール)、森義文さん(カハラ)、岸田周三さん(カンテサンス)といった料理界の巨人に、辻村史朗さん(陶芸家)、石川九楊さん(書家)、坂茂さん(建築家)、といった、創造性の高い現場で体を張る達人たち。

そのほか、山極寿一さん(京都大学)、金田一秀穂さん(言語学者)、熊倉功夫さん(国立民族学博物館)といった研究職の方々に、水木しげるさん・武良布枝さん夫妻、森英恵さん、榊原郁恵さん、小山薫堂さん、有森裕子さん、山本聖子さん、桂三枝(現・文枝)さんなど数え上げたらキリがない。

お相手はすべて土井先生ご本人の指名。現場で繰り広げられる会話から、とてもたくさんのことを勉強させていただいた。この連載で見聞きしたことが、ある面では自分の考え方の土台になってもいる。ここ数年で食べ物関連の仕事にずいぶんと軸足を置くようになったが、そのきっかけのひとつは、間違いなくこの対談連載だった。

何度かあった京都での取材後には、必ず土井先生お気に入りの丼もの屋で食事をした。何度目かのとき、「ごはん軽めで」と注文しようとしたら「いいバランスになるよう作ってはるんやから」とたしなめられたし、震災後には、"着丼"を待ちながらあるべき仕事のスタンスについて話を聞いていただいたこともあった。

そんな土井先生が今回の特集にあたり、選んだレシピが父・土井勝さんから受け継いだ"黒豆"だった。原稿の導入で「ある特定のメニューでたったひとつのレシピがこれほどまでに支持され、伝播した例はないだろう」と書いた。これはまったくオーバーな話ではない。名だたるシェフから料理家までこのレシピの黒豆で正月を迎えた家庭は多かったと聞く。決して料理上手ではなかったうちの母親も、黒豆といえばこのレシピだった。黒豆界(というものが存在するかはさておき)に革命を起こしたレシピであり、錚々たる方々が登場する今回の特集の締めに選ばれたのには、このレシピの奥深さがあるんだと思う。


僕は政治家や医者、漫画家といった職業の方を「先生」と呼ぶのがわりと苦手だ。すべての人は取材の対象になり得るし、目線を下げ過ぎると見えなくなるものがある。心のこもっていない、記号としての「先生」使いが好きじゃない。でも土井先生については、いつからか自然と「土井センセ」と呼ぶようになっていた。それだけたくさんのことを(勝手に)学ばせていただいたんだと思う。

撮影後、初めて本家本元、土井家の黒豆をいただいた。レシピは同じでも実家の黒豆より味が澄んでいる。言うまでもなく、とてもおいしい。じっくり味わうと違いは明らか。それでもどこか似ていて懐かしい。取材後、自分でも黒豆を炊いてみた。案の定、何かが違う。でもでもやっぱり懐かしい。

いいレシピってこういうことか。